斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

映画『風立ちぬ』を評論してみた

映画『風立ちぬ』を観た。
ネタバレなしで、この映画について語りたいと思う。

 

 

他の映画から『風立ちぬ』を読む

この映画の上映が始まる前、何本かの映画の宣伝が入る。
紹介された映画は、『少年H』『永遠の0(ゼロ)』『終焉のエンペラー』など。どれも戦争映画である。そして、『風立ちぬ』の時代背景も主に戦前で、ラストは戦後になる。戦争映画が目白押しだと思わないだろうか。

なぜ、こんなにも戦争映画が多いのか。それは、今がちょうど時代の転換期だからである。そして同じように時代が転換したのが戦争前後なのであり、また、時代が抱える不景気や閉塞感も重なっている。そのため、時代は違うが、現代と似たような現象を抱えた戦争時代の映画は共感が得やすい。(ちなみに、幕末ものも流行るはず。そういう意味では『八重の桜』はマッチしている)。

宮崎駿監督が戦前を選んだのは、現代の社会性を読んだからだろう。映画というのは、今観ている映画だけではなく、時代も一緒に読み解くことができるものだ。何が流行っているかを見れば、今の社会が抱えているものが見え、また予測することもできる。それもまた、映画の面白さだ。

 

 

今までの宮崎映画と違う点

まずタイトルだ。『風立ちぬ』は、宮崎映画では珍しい、というか、はじめてタイトルに『の』の字がない。実は、宮崎駿監督の作品のタイトルには、全て『の』の字が入っている。

風の谷のナウシカ
天空の城のラピュタ
魔女の宅急便
紅の豚
もののけ姫
千と千尋の神隠し
ハウルの動く城
崖の上のポニョ

 

だか、今回はない。
今までの作品とは、毛色が違う映画であることを示唆している。では、実際に映画を観て、今までの映画とは大きく違った点を2つご紹介しよう。

 

 

今までと違う点1 架空の生き物が出てこない

今までの宮崎映画は、ご存知の通り数多くの架空の動物や生き物が出てきた。それが、その映画のシンボルキャラクターとなり、商業的にもグッズが売れて、ジブリの収益にも貢献している。しかし、『風立ちぬ』には、シンボルキャラクターになりえるような架空の生き物は出てこない。
おそらくこれは、リアリティーを求めた結果だろう。そのため、必然的にも大人向けの映画になり、また宮崎駿も大人を意識して作ったと読める。そのため、子供を連れて行っても「面白くない」と言われるのが関の山だろう。

 

 

今までと違う点2 恋愛をまともに描いている

今までの宮崎映画にもヒロインは出てくるが、あまり大胆に恋愛シーンは描いてこなかった。しかし、今回の映画は『恋愛映画』のジャンルに分類されてもおかしくないほど、恋愛シーンを描いている。キスシーンも3回以上あった。
ただ、『恋愛映画』なのかと問われれば、そうとは一言では言えず、そこがこの映画の奥深いところである。この映画を浅く読めば、恋愛映画になってしまうが、深く読むと恋愛映画とは言えない。

 

 

主人公のアーティスト性を他の映画から読み解く

映画の主人公は、飛行機の設計士という位置づけだが、飛行機の美しさに魅せられた芸術家(アーティスト)でもある。主人公はよく夢を見る。また起きていても妄想(幻覚)の一種で、人には見えない飛行機などが見えているシーンがある。妄想(幻覚)シーンを観て、思い出した映画がある。最近観た『ミス・ポター』と『善き人』だ。

『ミス・ポター』は、ピーターラビットの生みの親を主役にした作品だ。映画の中ではミス・ポターが描いたウサギやその他の動物たちが動き出す。それはミス・ポターだけが見えている世界であり、他の人には見えない。時々、ウサギとも会話したりして、コミュニケーションを取ったりもする。

『善き人』に出てくる主人公は作家なのだが、この人も幻覚を見るシーンが度々出る。普通に生活しているとき、周りにいる人が突然歌いだしたりするのだ。もちろん他の人からは歌っているようには見えないし、歌も聞こえてはこない。しかし、主人公から見える世界では、明らかに見ず知らずの周りにいる人は歌っているし歌も聞こえてくる。

最近観た映画3本とも、主人公が皆芸術家であり、妄想癖があることに驚いた。他の人には見えていない何かが見えているのだ。芸術家とは皆そうものだろうか。

 

 

今まで以上に自分を投影した映画

映画は多かれ少なかれ、作者自身が投影される。
原作・脚本、監督の三役を担い、大人向けでリアリティーのある映画となれば、自分を投影するには十分すぎるほど環境が整っている。主人公の堀越二郎は実在した人物のようだが、人物の描き方を見ると宮崎監督自身を投影していたように思う。芸術家としての宿命(呪い)やエゴ、そして矛盾。それらが描かれている映画だった。おそらく、『風立ちぬ』を観て一番感動するのは宮崎駿自身のはずだ。ただ、映画を観た観客の中には、“置いてかれている”と感じた人は大勢いるだろう。特にアニメ映画は自分を投影し、自己満足的な作品になりがちになる。今回の映画は、今まで以上に宮崎駿自身を投影しているため、観客の中には、「ジブリ映画の中で一番つまらない」と評価する人がいても仕方ないと思う。


以上が、ネタバレなしで私が話せる『風立ちぬ』の解説である。
以下は、ネタバレありで解説したていく。

 

 

『風立ちぬ』の見所は主人公、堀越二郎にある

主人公はどんな人間だったのか。婚約者、里見菜穂子をどう思っていたのか。それをどう読み取るかが、この映画の醍醐味だと私は思う。では、私はどのように堀越二郎を読み取ったのかについて解説したいと思う。

 

 

二郎は、嘘をついて結婚した

映画の中盤に、二郎と菜穂子は出会い、恋をする。そして避暑地のレストランで菜穂子の父親の前で交際の約束する。この際二郎は「風に帽子を飛ばされ、取ってもらった時からあなたを愛していました」(セリフは正確ではない)という趣旨のことを言う。
つまり、汽車で出会った時から好きだったと言うのだ。これは大嘘である。なぜ嘘だと断言できるのか、理由は3つある。

 

1、二郎はお絹さんが好きだった

関東大震災の際、お絹が足を骨折し歩けなくなった。二郎はお絹をおぶり、上野まで行く。その後、家の者たちに迎えに来てもらい、無事、菜穂子とお絹は家に戻ることができた。

2年後、二郎は航空学科の校舎にいた。昼食後、二郎は用務員から、若い女性からだと荷物を渡される。中身を見ると、お絹を介抱した際に使った計算尺とシャツが入っていた。これを見て二郎は慌てて校舎を飛び出す。その際思い浮かべたのは、菜穂子の姿ではなく、お絹だった。このシーンは、二郎はお絹に気があると解釈できる。おそらく、映画を観ていた多くの人達も、この時ばかりは、私と同じように思っただろう。二郎がこのとき気があったのはお絹だったのだ。

 

2、菜穂子のことはすっかり忘れていた

泉で二郎と菜穂子が二人っきりになるシーンがある。
そのとき菜穂子は、「あの時からあなたは少しも変わっていませんね」(記憶なのでセリフは正確ではない)と、関東大震災の際に助けられた少女だと打ち明ける。このとき初めて二郎は思い出す。つまり、このシーンでも、菜穂子のことなどとうに忘れていたことを表わしている。また、ここ至るまでの中で、菜穂子を思い出す空想シーンは1秒もない。

 

3、ドイツ製の煙草が嘘を示唆している

避暑地のホテルのレストランで二郎が煙草を吸っている時、ドイツ人のカストルプと出会う。彼は「ドイツの煙草。これ最後。悲しい」と言い、二郎は日本製の煙草を譲る。

ある日の夜、レストランでカストルプがピアノを弾き、歌を歌う。それに合わせて二郎を始めレストラン内にいた人達も歌い始める。カストルプが二郎たちと同じ席に着くのだが、彼が座ったテーブルの上にはドイツ製の煙草が置いてあった。つまり、カストルプの言ったドイツ製の煙草がなくなったというセリフは、嘘だったのだ。後に、カストルプは追われる身になるため、おそらくスパイか何かだったのかもしれない。ただ、レストランでのワンシーンに、ドイツ製の煙草を描いているのは、映画的に言えば、「これから嘘をつく」、「俺は嘘ツキだぜ」を示唆する画となる。そしてすぐに交際の話となった。つまり二郎は嘘を言い交際をするというシーンになるわけだ。

 

 

なぜ、二郎は嘘をついたのか

二郎が菜穂子のことを好きになったのは間違いないだろう。といより、菜穂子の美しさに魅入ったと言ったほうが近いかもしれない。
彼は飛行機の設計士であり、同時に芸術家でもある。二郎は美しいものに目がなく、また、美しくないもの、美しくなくなってしまったものには、とことん興味を示さない。それをよく表わしているワンシーンがある。それは、壊れた日本製の戦闘機を目の前にして、二郎は何の感傷もせずにプイッと後ろを向いてしまうシーンだ。二郎が愛してやまない飛行機だとしても、美しくなくなったとたん、興味を失う心の持ち主だというのをよく表わしている。
二郎は飛行機を褒めたり、人を褒めたりする際「美しい」「綺麗だ」しか言わない。美しい物にはとことん関心を示し愛するが、そうでないものには関心を示さないのだ。

 

 

なぜ、菜穂子は療養所を抜け出してきたのか

菜穂子は愛する二郎と長く一緒にいたいと願い、病気を治そうと療養所に行くことを決心する。ある日、療養所に二郎から一通の手紙が届く。それを読んだ直後、菜穂子は療養所を抜け出す。菜穂子が療養所を抜け出したのは、二郎の手紙がきっかけとなっている。

実はあの手紙、冒頭の部分だけ若干読める。私の記憶では、1,2行は季節の挨拶があり、3行目からはもう仕事の話を書き出している。つまり、手紙の中で菜穂子のことを気にかけてもいないのだ。菜穂子は気づいた。二郎は美しい物にしか目がない。私が近くにいないと飛行機だけに没頭してしまう、と。そして、療養所を抜け出すことを決心したのだ。

二郎の美に対する盲目さを菜穂子は理解した。そのため、菜穂子は寝込んでいる際も頬紅を付け美しさを保った。また、死が近づいていると悟った時も、美しい姿ままの自分だけを二郎の記憶に留めてほしいと思い、療養所へ戻った。

すべては二郎の美しさに対する残酷なまでの愚直さと、美しくないものに対する無関心さが、菜穂子をそうさせたのだ。

 

 

飛行機に取り憑かれた二郎

菜穂子の父から「ナオコ カッケツ」との電報が届き、二郎は慌てて着替えて仕事道具を鞄に詰め込み、汽車に乗る。このシーンがとても印象的だ。二郎は、汽車の中で泣きながら仕事をしている。

これは二通り見方がある。
一つは、菜穂子が倒れたのに、それでも仕事をしている自分を客観視して、自分の残酷さに泣いている、という見方。もう一つは、菜穂子が倒れたことが泣くほど悲しく心配なのに、それでも仕事をしてしまうほど飛行機に魅せられてしまっている、という見方。共通して言えるのは、飛行機はどんな時でも頭から離れないということだ。これは、芸術家の抱える宿命というか呪縛というものである。どんな時でも、魅せられたものから離れることはできないのだ。愛する人が死んでも、そして自分が死ぬまでそれをやり続けなければならない。(私も芸術家なのでよく分かる。嘘ですw)

 

 

美に対する二郎の盲目性

二郎は美しい飛行機を造ることに一心不乱に取り組む。一切迷いはない。自分が造っている飛行機は戦闘機となることを二郎は知っている。普通の映画では、恋人の死を意識すれば、自分が造る飛行機が多くの人を殺し、また、日本国の国民を死に追いやるかもしれないという現実と葛藤するものだ。しかし、二郎にはその葛藤が微塵もない。
友人の「俺たちはただ美しい飛行機を作りたいだけだ」という言葉に、「うん」と反応する(記憶なので、セリフは正確ではありません)。直球に言ってしまえば、自分が造る飛行機で何万人死のうが知ったことではない、という態度である。
夢の中でカプローニは二郎にこう言った。「空を飛びたいという人類の夢は、呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ…」と。それを聞いても二郎は夢を持ち続けることをやめない。つまり二郎は子供の頃から呪われることを受け入れていた。
また、ラストシーンでのカプローニと二郎の会話も象徴的だ。二郎の作ったゼロを見て言ったカプローニは「美しい。いい仕事だ」と言い、二郎は「一機も戻ってきませんでした…」と返す。二郎は「自分の飛行機で沢山の人が死にました」と言いたかったのか。それとも「美しい飛行機が一機も戻ってこなくて残念です」と言いたかったのか。おそらく後者だろう。先に話した通り、飛行機に魅せられる呪いを子供の頃から受け入れていたのだから。二郎は、自分の造った戦闘機が国を滅ぼす一役を買っていたと分かっていても、美にこだわったのだ。

 

 

結婚式に言った一言

菜穂子は療養所から抜けだし二郎と再会を果たす。その後二人は上司の黒川に仲人をお願いする。その際黒川は、「彼女の身体を考えたら、一刻も早く山へ戻さないといけないぞ」と諭すが、二郎は「私が付き添えればいいのですが、飛行機をやめなければいけません。それはできません」と答える。これは、どう言う意味だろうか。
「立場上や仕事の状況上、飛行機は止められない」と言っているのだろうか。それとも、「菜穂子よりも飛行機の方が大事」と言っているのだろうか。取り方によっては、とても残酷に聞こえる。

 

 

仕事中、菜穂子を一切心配しなかった二郎

黒川の仲人の元、二郎と菜穂子が結婚し、離れでの二人きりの生活が始まる。菜穂子の病状は快方に向かわず、寝たきりが続く。そんなときでも二郎は深夜に帰宅し、その後も仕事を続ける。二郎が仕事中に菜穂子を思い出したり、心配するシーンは一度も出てこない。帰宅後も、一言でさえ「具合は大丈夫か?」と声をかけるシーンもない。そしてしまいには煙草を吸い出す始末だ。一応、菜穂子の了解を得ているとはいえ、また、時代背景上今ほど煙草の立場が悪くないとはいえ、結核で寝込んでいる菜穂子の横で煙草を吸うのはどうなのだろう。菜穂子の了解を得た途端、二郎は迷わず煙草を吸いだした。

 

 

二郎は菜穂子を愛していなかったのか?

ここまで二郎の人間味の無さというか、無慈悲さを書いてきたのだが、では二郎は菜穂子を愛していなかったのかというと、そうとも言い切れない。唯一愛情表現しているのは、結核である菜穂子と生活を共にし、キスをしていることだ。当時であれば大変リスキーな行為である。不治の病であり、空気感染する病気だからだ。ただ、二郎にしてみたら美しい飛行機も美しい美穂子も、命を捧げてもいいと思っていたに違いない。美しさに魅せられた人間(芸術家)は、その美しさに人生と命も捧げてしまうのだから。それが芸術家の美学でもあり呪いでもあるのだ。ただ、それを愛と呼ぶかはよく分からない。

 

 

それでも二郎を愛した菜穂子

二郎は飛行機に魅せられており、そして美しいものにしか興味がないことを菜穂子は理解していた。一緒にいる時間も短く、夜も遅くに帰ってくる。仕事で大変なのはわかる。しかし、もう少しかまって欲しいと思うものが女の性というものではないだろうか。二郎が薄情でも、それをグッと堪えて二郎を支え、好いていてくれたからこそ、菜穂子の愛情が際立って見えたとも言える。

私の読み違いでなければ、おそらく、菜穂子は完全に宮崎駿監督の理想の女性像だと思う。芸術家に嫁ぐ理想の女だ。たとえ自分が不治の病であっても、たとえ家族をかえりみない亭主であっても、黙って支えてくれる女性、それが、宮崎駿監督が理想とした女ではないだろうか。

 

 

宮崎駿と堀越二郎

どうして、菜穂子を宮崎駿監督の理想の女性だと私は思うのか。それは、宮崎駿監督と二郎が重なって見えるからである。宮崎駿も同じように飛行機好きであり、またアニメに魅せられた芸術家である。彼もまた、家族をかえりみずアニメ映画の制作に没頭していたらしい。
『風立ちぬ』は、宮崎映画で初めて芸術家を主人公にしている。そしておそらく、今までの作品以上に、主人公へ自己投影されているのではないだろうか。
私は『風立ちぬ』を見ていて、二郎が宮崎駿氏に見えてきた。

 

 

矛盾を抱え、それでも人は『生きねば』

航空学科からの友人であり仕事仲間でもある本庄は、貧乏な国が飛行機を買うことや自分が世帯を持つことに「矛盾だ」と言う。『風立ちぬ』という映画もいくつかの矛盾を抱えている。
カプローニと初めて出会った草原に墜落した飛行機の山を見て二郎は、「地獄かと思いました」と言う。自分の造る飛行機が美しかった草原を地獄にすること、日本を滅ぼすと分かっていても飛行機を造り続けたという矛盾。仕事に励んだことが菜穂子の寿命を縮めることになったという矛盾。そして私から見た最大の矛盾は、カプローニのセリフ「創造的人生の持ち時間は10年だ」だ。この映画を作った宮崎駿氏は、脚本家として監督として、とうに10年は過ぎている。まさかこれから先10年頑張るつもりなのか? う~~む、最大の矛盾だ。それでもアニメを造り続けるのであれば、『生きねば』の言葉を地で行く人となる。
人は矛盾を抱えながらも『生きねば』ならない。そう言いたかった映画だったのだろう。

 

 

まとめ

長く書いてきたが、以上が私なりの『風立ちぬ』の解説(評論)だ。
私の〝読み“なので、宮崎駿監督の意図と合っているかは分からない。
最後に一言。この映画は読みものとして大変優れた映画だ。映画館で上映される映画がいつもこのクオリティーであれば、私は退屈せずに人生を送れるだろう。それぐらい読ませてくれる映画だった。

まだまだ書きたいことはあるが、そろそろ筆を置くこととしよう。あなたは『風立ちぬ』をどのように読むのだろうか。

 

 

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