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斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

思考力を鍛えるブログ記事の書き方

理論・方法論 インターネット

ブログを書き始めて早3年になる。
不定期な更新頻度だが、今まで続けてこれたのは、書くことの恩恵を身を以て感じているからだろう。3年前のブログを読みかえすのは正直苦痛だ。よくこんな稚拙な記事をアップできたのだと思う。読んでいて恥ずかしくなる。
ただ、この「恥ずかしい」という感覚は、嬉しくもある。なぜなら、前に書いた文章が恥ずかしく思えるのは、それだけ自分が成長し、思考力が高まった証でもあるからだ。

3年前の私は、ブログ記事の執筆に最善を尽くしている。それを「この程度だったのか」と思えるほど、思考力に差がついているのだ。今書いている記事も、3年後の私から見れば恥ずかしくもあり嬉しくもある記事になっているのかもしれない。いや、そうあって欲しいと願っている。

恥ずかしく思えるほど、3年前の私と今の私には歴然とした思考力の差が存在している。その差を生んでいるのは、人生経験を積んだからでもなければ、書籍を多量に読んだからでもない。経験も知識の量も、思考力とはほとんど関係ない。思考力は、思考しなければ鍛えられない。それが私の持論であり、経験的にそう悟っている。では、どのように思考力を鍛えるのか。それは、「深く書く」それだけだ。

 

 

書くことでしか思考力は鍛えられない

「書く」は一種の思考鍛錬法だと私は考えている。一種と言ったが、正直、本心ではない。「それしかない」が本音である。何か一つの事柄を深く潜考したければ、それについて深く書くようにしている。

自分の考えを書き出していくと、いくつかの題目が出てくる。その一つひとつをさらに深く掘り下げてみる。すると新たに思考しなければならない事柄を発見する。そこでまたさらに思考する。そうやって思考の海へと深く深く潜っていく。気がつけば、3,000文字はゆうに書き出している。

“深く書く”とは必ずしも“長く書く”の意ではないが、深く書けば必然的に文章は長くなっていく。誤解してほしくないのは、「長く書けた=深く思考した」にはならない。ダラダラ長文をただ書いただけでは、“深く思考した”にはならないからだ。そういったブログはよく目にする。それはそれで読み物としては面白い場合もあるが、思考力を鍛える方法としては成り立っていない。

 

 

思考深度を深めていく

筋力は、強い負荷を与えなければ強くならない。筋力が強くなれば、より強い負荷を与えなければ、それ以上の筋力は強くならない。そうやって徐々に負荷を大きくして筋力を強化していく。それが筋力を増強させる基本だ。

海女やフリーダイバーが常人よりも深く潜水できるのは、何度も深く潜る経験を積んでいるからだ。浅瀬でどんなに長く泳いでいても深く潜れるようにはならない。

筋肉にしても潜水にしても、人の能力というのは、強い負荷を何度も与えることで鍛えられる。思考力も例外ではない。
深く思考する経験を何度も何度もして、深く思考できるようになるのだ。

浅い思考を何度繰り返しても思考力は鍛えられない。今までにない深い潜考を繰り返すことで思考力は鍛えられる。情緒的な表現をすれば「こんなにも考えたことがない」を毎回繰り返すのだ。

もし、思考力を鍛えたければ、浅薄なブログ記事を何度も書くよりは、熟考したブログ記事を一つ書いたほうが良い。喩えるなら、深く思考の海へと潜っていく感じだ。今まで潜ったことのない思考深度まで沈んでいく。これを何度も繰り返すことで思考力が鍛えられ、思考深度が深まって行くのだ。

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思考力の鍛錬は、思考するしかない

ブログ記事の書き始めは、スムーズに流れることが多い。
頭の中には書く内容がある程度浮かんでいるからだ。1時間で1500文字は余裕で書ける。しかし、書きたいことを大方書き出した途端、タイプを打つ音が止む。同時に、潜考する時間がはじまる。長い時は、パソコンの前で10分以上指が動かないこともある。この時間が思考を鍛えている。

人によってどこで指が止まるのか思考深度は違うだろうが、思考している時間は等しく思考力を鍛えている時間なのだ。この時間は、効率化できない。短くできない。何度も繰り返して、鍛えるしかない。鍛えれば、今苦しいと感じている思考深度までラクに潜れるようになる。だが、その先の深度に行けばまた同じように苦しみ、思考時間を要するようになる。これの繰り返し。冒頭で述べた通り、潜考する以外、思考力は鍛錬できないのだ。

 

 

人に見せることで客観性を維持する

おそらく2年ぐらい前から、潜考することで思考力が鍛えられることに薄々気づき、ブログを書き続けてきた。
自分の思考力を鍛えるために書いているのであれば、わざわざブログにして公にする必要はない。私がそうしているのは、周りの反応を見たいからだ。自分の思考プロセス(論理性)や私の結論(解)が、周りからどのような評価を受けるのかを知りたい。というのは、一つの事柄について深く書いていると、いつしか客観性を失い、自分はまともな文章が書けているかが分からなくなるからだ。

文筆作業に従事した者は分かると思うが、文筆に入り込むほど、自分の書いたものを客観的に見れなくなる。潜考すればするほどその現象は顕著に表れる。常に冷静で客観性を保てるのも思考力の一つだと私は考えているため、外からの指摘などは大いに参考になる。また、人に見られるという意識も大切だ。人に見られる意識がなければ、好き勝手書いてしまい、客観性を保つという意識が欠落してしまう。
思考した結果をブログで公開することは、公開しないよりは思考力を鍛える点において有効だろう。

 

 

閃きは潜考した者にしか訪れない

閃きを経験したことはあるだろうか。
私の経験、そして私が知る閃きを経験した者は、例外なく、考えに考え抜いた先に閃きを得ている。
日夜あることだけを考え続け、頭から離れず、ふとリラックスした際に閃きが降ってくる。考え抜いた者にしか閃きは降りてこない。

ブログ記事を通じて潜考していると、書いている最中、または、書き終わってから間もなく、新たに書くべきネタが閃くことはよくある。これも、潜考することで得られる恩恵だろう。感覚的な表現になってしまうが、深く潜らなければ触れられないものや見えない世界が確かにそこにあるのだ。

ブログネタに尽き、更新が滞る人は数多くいる。
もし、私がアドバイスするなら、「1記事1記事、すべて書き尽くせ」と言うだろう。手を抜いてブログ記事を小出しに書いていると、いつかネタに困る。逆に、尽力してブログ記事を書いているほうが、ネタに困らなくなる。
小出しに記事を書いていたほうがネタに困らないと思うだろうが、それは逆である。出し尽くせば出し尽くすほど、新しく書くべきネタが見つかる(閃く)のだ。

先ほど述べたように、潜考することによる閃きもあるが、思考力が鍛えられたためネタが見つかりやすくもなっているのだろう。思考力がない者は、いつかネタに尽きる。今ある知識を切り売りして終わってしまうからだ。
思考力さえあればネタを発見する力、そしてそれを熟考する力が養われる。それが記事のネタになる。ブログ記事を書き続けるためには、常に新たな考えが湧き出る頭を作るほうが大切なのだ。

 

 

潜考から着地、そして浮上へ

思考の海底(限界)まで来たら、それが着地点となる。どこが着地点かは、書いていれば分かるはずだ。
着地後は、潜って来た思考の海を見上げてみる。海面からどこまで潜って来れたのか、思うように潜れたのかを見つめるためだ。

ブログ記事を読み直し、自分の主張や論理はおかしくないかを推敲してみる。
この推敲の工程は、私は極めて重要だと考えている。なぜなら、最も思考力が鍛えられる場面だからだ。

海底まで潜考すると、「書いた記事はもう見たくない」となるはずだ。推敲する気力がほとんど残っていないためである。だからこそ意味がある。筋肉トレーニングも「苦しい、もうこれが限界」と思ったところからが本番だ。そこから1回でも2回でも負荷をかけたとき、筋力が鍛えられる。筋力も思考力も、苦しいと感じたところからが本番なのである。限界まで潜考してからの推敲は、あなたの思考力を鍛えてくれる。

着地をしたら、次は浮上だ。
思考における浮上とは、校正である。校正作業は思考力を鍛えないため、他人に委ねてもよいが、それでも1度は自分で校正することをお勧めする。文章力の上達が早まるからだ。自分でする際は、1日ほど時間を空けるといいだろう。脳がクールダウンして客観的に文章を校正できる。

 

 

まとめ

書くことと考えることは同じである。
深く考えるためには深く書けばよい。深く書けば深く考えるようになる。ノートとペンを持たなくても思考はできる。だが、それでは浅瀬で泳いでいるのと同じだ。人は深く考えるとき紙とペンを用いるし、そして、用いてきた。どんな科学者も紙の上でペンを走らせて思考してきたはずだ。それを意識的に行えば、思考力は鍛えられる。
思考力を鍛える一環として、潜考してブログ記事を書いてみてはどうだろうか。10回も行えばその効果を実感できるはずだ。