斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

「自信」はどこから来るのか? 根拠のない自信を手に入れろ!

書店に足を運ぶと「自信」に関する書籍を度々目にする。
世知辛い世の中だ、自信を失っている人が多いのかもしれない。理由はどうあれ、「自信を持ちたい」と願う人は少なくないようだ。

実は私、大の自信家である。周りからも「その自信はどこから来るのか?」「どうしたら自信を持てるのか?」と度々訊ねられる。残念ながら私は明確な答えを持ち合わせていない。「分からない(答えはない)」と言うほうが正しいのかもしれない。

そもそも自信には、根拠や理由なんて存在しない。もし、自信に根拠や理由があるのなら、それは自信とは呼ばない。「根拠のある自信」という言葉があるが、根本的に誤った言葉の使い方である。考えてみてほしい。たとえば、物理法則に則った現象を起こすのに「これは絶対に起きる自信がある」と言うだろうか。言わない。起きて当たり前である。「根拠のある自信」とは、これに近い。

自信は「自分を信じる」と書く。つまり、今の自分に“ない”ものを“ある”と信じることを自信と言うのだ。根拠があれば、そもそも言葉の定義から外れる。「根拠のある自信」は、完全に言葉遊びであり、誤解である。根拠なく自分を信じられる人こそ、真に「自信のある人」と呼ぶのだ。

 

 

自信のある人は、現在と未来の時間感覚がない人

自信について語る前に、まず「信じる」ということについて話しておく必要がある。
これは以前、他のブログでも書いた内容だが、今回の記事にも通じる話なので、改めてここでも書き記しておきたい。

あなたに一つ質問したい。
あなたは宝くじが当たり、1年後に1億円振り込まれるとしよう。これは確定事項であり、1年後に必ず1億円振り込まれる。必ずだ。もし本当にそうなら、振り込まれる前からあなたはすでに1億円所有している気分にならないだろうか?
私なら、なる。10名近く同じ質問をしたが、ほとんどがYESと答えた。

この質問の意図は、未来が確定していれば、“人はその未来の気分を現在に持ち込み、味わえる“ということを知ってもらうためである。今回の質問は、「確定」(根拠)がある例だが、信じる力を持っている状態は、確定がなくても未来の気分を現在に持ち込むことができる。

自信家は「俺は日本一だよ」「俺は世界を変えるよ」と自信ありげに口にする。それは、現在できていなくても、未来できると信じているため、現在も“それができた状態”で答えているのだ。自信家にとっては、未来も現在も「現在」なのである。

もう一つ例を話そう。私の母についてである。
私の母はとある宗教の熱心な信徒である。母は「この宗教を信仰している人は必ず幸せになる」と信じ切っており、疑う心など微塵も持ち合わせていない。そのため、どんな危機的状況に陥っても涼しい顔をしている。
私が知るだけでも、ヤクザの事務所に単独で乗り込んだり、暴走族めがけて車で突っ込んだりしている。にも関わらず、恐怖心を一切持ち合わせない。なぜなのか。それは、信仰している自分が死ぬわけがないし、不幸になるはずもないと信じ切っているからだ。そして母は、自分は「幸せだ」と言っている。
宝くじの例と同じである。未来、幸せになると信じ切っているからこそ、今この瞬間から幸せになっているのだ。

「信じる」の意味をなんとなく分かってもらえただろうか。
さて、次は自分を信じることについて言及しよう。

 

 

自分の“何を”信じるのか

自信家は、自分の“何を”信じるのか。それは、「自分の可能性」である。

ここでもう一つ質問をしたい。
24時間以内に英単語を一つ覚えてもらいたい。あなたはそれに対して「YES」と自信を持って答えられるだろうか。 「えっ、単語一つでいいの? そんなの簡単だよ。YESだよ」
どうやら、あなたは自信があるようだ。「馬鹿にしてんのかお前w」と思うかもしれないが、これは自信というものを矮小化したのだ。

つまり、英単語一つは誰もが自信を持ってYESと答えられる。しかし、課題が大きくなるにつれて、脱落者が出てくる。自信家を分かりやすく言えば、過去に経験のない(根拠のない)大きな課題が出されても「自分だったらできるんじゃないの」と思える人なのだ。

自信家と言っても、何にでも自信を持っているわけではない。自分が目指しているものにしか自信を有していないことがほとんどだ。だが、一つでもそれがあれば、自信というオーラが全身を包み、周りから自信のある人と見られるようになるのだ。なぜなら、現在それができていなくても、未来できると信じており、その気分は現在が引き継がれるからだ。だから、自信が溢れてくるのである。

 

 

どうしたら自分の可能性を信じられるか

私は冒頭に、「どうしたら自信を持てるのか?」の問いに対して「分からない(答えはない)」と記した。その理由はこれから話す内容にある。

私の本音を述べれば、自信の有無は、自分のことが好きかどうかで決まると考えている。「好き」も自信と同様、根拠も理由もいらない。「好きなものは好き」なのだ。ある意味、「自信がある」と「自分が好き」は同質のものだと言える。

そして、自分のことを好きになれるかどうかは、親にどれだけ愛情を注がれたかが重要なのである。好ましくは、父母からの愛情があればいいのだが、片親でも構わない(私は父の愛情をかなり受けた)。

私が「分からない(答えはない)」と言った理由はこれだ。親の愛情をどれだけ注がれたかどうかは過去の話だ。過去を変えることはできない。そのため、この話をしたところでどうしようもないのだ。だから私は「分からない」と答えるようにしていた。

ところが先般、書籍「本物の自信を手に入れるシンプルな生き方を教えよう」(著者 千田琢哉)にこんな一文が書かれていた。

根拠ある自信ではなく、根拠なき自信こそが本物である。そして根拠なき自信を獲得するためには、無償の愛を受けている必要がある。無償の愛を受け損ねたとしても大丈夫。自分のことを好きになればいい。自分のことを好きになるためには、自分が好きなことに没頭すること

本物の自信を手に入れるシンプルな生き方を教えよう。

本物の自信を手に入れるシンプルな生き方を教えよう。

 


親の愛情を受けなかった人でも、好きなことに没頭すれば、自分を好きになれると記述されている。ただ、私にはこの記述が正しいのかどうか、正直よく分からない。反論したいのではない。私は実体験的にそれをしたこともなく、周りでもそのような人を見たことがないため、賛同できないだけである。もしかしたら、著者の言うように好きなことに没頭していれば、自分を好きになれるのかもしれない。

本書は、私の自信論とほぼ完全に一致している。もし、自信についてより詳しく知りたければ、本書をお勧めする。

 

 

まとめ

自信とは自分のことが好きでないと持てない。自分を好きになれるかどうかは、親の愛情をどれだけ受けたかで決まる。現時点では、私はこれを変える術を知らない。だが、千田氏は、一つの光明を示している。それは、「好きなことに没頭すれば、自分のことが好きになり、根拠なき自信が持てる」と。