斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

「才能よりも努力」「努力できるも才能」は、嫉妬の表われ

前回のブログ記事で、「アイディアに価値はない。行動にこそ価値がある」は、愚かな論だと述べた。その理由に挙げたのは、アイディアと行動は二つでセットであり、それを対立させること自体ナンセンスであるという自説。たとえるなら、ナイフとフォークのどちらが優れているかと論じているぐらい愚論である。

  

記事を書き終え、一つの疑問が残った。なぜ、「アイディアに価値はない」と声高に叫ぶ人がいるのか、と。このような疑問を持った際、私はほかに似た事象がないかと類推するようにしている。類推した結果、似た事象が見つかった。それは、「才能よりも努力」といった論である。

才能と努力。これも本来二つでセットのはず。「実力=才能×努力」は、小学生でも気づく方程式である。方程式を見て分かるように、才能はないよりもあったほうがいいに決まっていし、努力しないよりしたほうがいいに決まっている。当然、いくら才能があったとしても努力しなければ実力はつかず、少ない才能でも努力を惜しまなければ実力はつく。どちらが優れているかという話ではない。どちらも大切であり、二つで一つとなっているのだ。

 

 

片方を否定したがるのは、嫉妬が根源

「価値=アイディア×行動」も「実力=才能×努力」も、少し考えれば誰でも気づくはずだ。にも関わらず、なぜ「アイディアよりも行動」や「才能よりも努力」と言った論が出てくるのか。これらの論が出てくる根源は、「嫉妬」であると私は考える。否定したがるのは、持たざる者の逆襲なのだ、と。

アイディアが豊富に出せる人はセンスのいい人であり、センスは先天的なものであると思われている。センスの乏しい人(自分はセンスがないと諦めた人)は、自身の行動力で成果を挙げ「見たか。アイディアよりも行動力が大事なんだよ」と言いたくなる。才能がない人も同様だ。努力を惜しまず、何か結果を残して「才能よりも努力が実を結ぶんだ!」と言いたくなる。

行動して成果を挙げたのなら、それを称すればいい。努力が実を結んだのなら、それを誇ればいい。引き合いに何かを出して否定する必要はないはずだ。なぜ、引き合いに出すのか。持たざる者の嫉妬がそれをさせているのだ。否定する者は、本当は欲しているのだ。持てる者が持つそれを。

時々目にする言葉「努力できるも才能」は、まさに嫉妬を表出している。この場合、否定ではなく、努力を才能に包摂しようとしているが、その様はまさに「才能があると認められたい」の表れである。

以前、陸上選手の為末大氏がTwitterで以下のツイートをして炎上した。


私も学生時代は陸上部だったため、為末氏の言葉はアスリートとしての正直な見解だと分かる。すべてとは言わないが、批判の多くは「嫉妬」からきたものだろう。認めたくないのだ、実力の大部分は才能が占めることを。認めたくないのだ、自分には才能がないということを。

否定するか、包摂するか。いずれにしても、二つで一つとなる事柄で、片方が先天的なものの場合は、片方を否定する論が出てきやすい。それは往々にして、嫉妬から発せられていると思っていい。

最後に、スヌーピーの言葉を引用して終わりにしたい。「配られたカードで勝負するしかないのさ……それがどういう意味であれ」。