斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

文系か理系かに分ける意味はない

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「自分のこと文系だと思う? それとも理系?」
このような質問を私は何度か聞かれた経験がある。あなたもあるかと思う。私は決まって「しいて言えば理系だけど」と返答をする。往々にして相手からは「文系だと思った。読書家だし、経済や政治への関心も高いから」と返ってくる。しかしこれはおかしな話だ。文系か理系かに分ける意味があるだろうか。いや、そもそも分けることができるのだろうか?

経済や政治、読書や映画を論じる際、私は主に論理的思考を用いている。発言や行動に矛盾はないか、あるとすれば原因(変化)はどこにあるのか。言動の背景にあるものは何か、それを証明(または示唆)する事象はあるのか。論理展開に飛躍はないか、読者の思考の歩幅と文の歩幅は合っているか。他の分野と類推できないか、上手い比喩表現はできないか。このような論理的思考の思索は、俗にいう「理系」的な考え方であり、それを経て「文系」で読み説いている。そのため、本来、理系と文系を切り分けることできないと私は考えている。


このような考えに基づいているためか、「何でも論理的に物事を考える奴には、文学は理解できない」といった意見を聞くと、違和感を覚える。逆なのだ。論理的思考力がないと文学は理解できない。文学を理解できるということは、論理力も優れていることを意味する。文学に強くて論理に疎いなんてことは本来ありえないのだ。

『NEW出口現代文講義の実況中継(1)』(著者 出口 汪)にこんな一文がある。

現代文は数学とまったく一緒なんです。数学は、論理を記号や数字を使って表すもの。それに対して、「論理」を日本語によって表したものが現代文の「評論」です。だからこの二つは一番近いんだね。一見、一番遠いようで、いちばん仲良しなんですよ。それをみんな、現代文は数学と正反対で、文学だとか、感覚的なものだとか、間違ったイメージでとらえてしまうんだね。現代文は数学と一緒です。(p46)

 

小説というのは、読んだら誰でも意味は分かります。硬い評論は内容自体の意味をつかむのは難しくて解けない場合が多いかもしれないけど、小説は意味が分かるのに解けないんです。それはなぜかというと、説き方が間違っているから。(中略)
じゃ、一般的に君たちの解き方がどう悪いかと言ったら、これはハッキリしています。客観的に文章を押さえていないのです。(p143-144)

出口汪 現代文講義の実況中継(1) (実況中継シリーズ)

出口汪 現代文講義の実況中継(1) (実況中継シリーズ)

 

 

現代文(現代文学)も、土台となるのは論理だ。論理の土台に「数字」が乗るのか「言葉」が乗るのかだけの違いであり、小説を読み解くのに求められているのは視点は客観性である。(「客観性」は「論理的思考」に内包されるため、以下本文における「論理」は客観性も含んでいる)

「土台は論理」であるならば、現代文も説明可能のはず。文学好きの人に、「この小説の文学要素をわかるように説明して」と言えば嫌な顔をされる。「こういうものは言葉にするもんじゃないんだよ」と。確かに、感動や感慨を言葉にすれば軽くなるし、言語化もしにくい。私もそれは求めていない。私が聞きたいのは、作者が作中で何を意図としてどんな仕掛けを施しているのかだ。これは説明可能なはずだ(理解していれば)。「なぜ、あえてこう書いたのか」「なぜ、あえて書かなかったのか」「なぜ、このような表現手段を用いたのか」「この行動や台詞は何を示唆しようとしているのか」「この行動は、前の行動とどのような関連性があるのか」といったことは説明できるはずだ。その評論が正しいかどうかはさておき、「説明できる」ということが重要なのだ。

名著として知られる『本を読む本』(著者 N.J.アドラー C.V.ドレーン)にもこんな一文が書かれている。

本当の批評の務めをまっとうするには、自分の好みや見方を離れて、その本から自分の得た感動の原因となっているものを、客観的に述べることである。その本のどこが良くて、どこが良くないかを、具体的に論じ、また、その理由を述べなくてはならない。
小説や詩を読む楽しさの秘密が何であるかがわかってくるにつれ、文学作品にひそむ芸術的価値がいっそうよく理解できるようになる。こうして、批評の水準を、しだいに高めていくことができる。また、同じような批評を下す好みの似通った仲間も大勢いることがわかってくる。文学のすぐれた鑑賞力をもつことは、読みかたの技術さえ身につければ、誰にでもできることに気づくだろう。(p208) 

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

  • 作者: J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン,外山滋比古,槇未知子
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客観的に述べ、具体的に論じ、理由を並べられて、はじめてその小説の文学性を理解したと言える。 これができないうちは、ただ単に「なんとなく好き」と言っているのと同じであり、文学を理解しているとは言えない。

私の好きなテレビ番組にNHKの『100分で名著』がある。この番組では専門家を招き、4回(各25分)に亘り一冊の本を読み解いていく。専門家の解説は実に論理的で分かりやすい。さすがに読み込んでいるだけのことはある。このように、文学を論理的に説明するのは可能であり、理解しているからこそできるのである。

同番組のスペシャル企画で、書籍『いきの構造』(著者 九鬼 周造)を取り上げていた。「粋」について研究した書籍だが、いやはやすごい。文学的な世界とも言える「粋」について言語化・理論化し、さらには三次元マトリクスにまで落とし込んでいるのだ。

 

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「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

 

 

ほかにも紹介すれば、料理を四面体によって解き明かした名著『料理の四面体』も圧巻だ。これも高いレベルの論理的思考力が無くてはできなかった作業だったに違いない。

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料理の四面体 (中公文庫)

料理の四面体 (中公文庫)

 

 

このように、抽象度が高く文学的要素の多いものでも、言語による説明はもとより、理論化や図解化さえ可能だ。

説明可能かどうかは、文学だけの話ではない。芸術も説明可能になりつつある。書籍『脳はこんなに悩ましい』(対談 池谷裕二 中村うさぎ)の一節にこんなやり取りがある。

中村 私は、「美」って文学的な感覚だと思い込んでいたんです。数学や物理とは相容れないものだと。でも、数学者が「美しい数式」みたいなことを言うじゃないですか。

池谷 オイラーの数式とか。ゼータの関数とか。

中村 私なんか、数式を見た時点で頭がサーーッと真っ白になるので、美しさなんて全然わかんない。しかも、彼らは、見た瞬間に美しい数式だ、これは正しいと直感した、なんて言いますよね。

池谷 ポアンカレ予想やリーマン予想は、まさにそんな言われ方をしますね。美しいと感じるからこそ、数学者はその予想を解こうと努力できるのでしょうね。美しくないものには、挑戦しようと思えない。だって人生をかけるんですから。

(中略)

中村 美の直感というのかな。数学でも自然界でも、ある種の直感があって、それを芸術家は「啓示」や「インシュピレーション」と表現したりするかもしれない。

池谷 なるほど。それが「直感」という脳のプロセスだとすると納得できますよね。言語化できない「何か」。芸術家は、自分の作品を学術的に解析されるのをものすごく嫌がりますね。ましてや数学や統計学の理論を持ち出すと、もう口も聞いてもらえない(笑)

中村 「私の芸術を杓子定規で分析するな!」って。

池谷 ええ、「芸術はそもそも整理解析できる類のものじゃない!」と。けれど実際に調べてみると、J・S・バッハでも、スコット・ジェブリンでも、名曲は音符も「べき則」でできているのですよね(笑)。古典的な芸術だけじゃなくって、たとえばモダンアートの巨匠ジャクソン・ボロックのアクション・ペインティング、あの抽象的な絵画ですら「べき則」なんです。

中村 やっぱりそうなんだ。(笑)

(中略)

池谷 当の芸術家本人は、自分の「感性」に基づいて神秘的な作品を生み出していると信じているかもしれませんが、なにせ、その脳自体が自然の一部ですからね。脳の産物である芸術作品が自然のルールに従うのは当然と言えば当然なのかも。

 ※「べき則」とは、別名「1/fのゆらぎ」として知られている。

脳はこんなに悩ましい(新潮文庫)

脳はこんなに悩ましい(新潮文庫)

 

 

 

 

芸術の世界まで説明可能になりつつある。「人はなぜ美しいと感じるのか」が解明されていくことは何を意味するのだろうか。それは、コンピューターでも「美」が生み出せるようになる。

近年、人工知能の成長が著しい。絵画や曲、小説の創作。ここ最近耳目を集めたのが、人工知能が書いた小説が星新一賞の一次選考を通過したというニュースだ。文学にしても芸術にしても、人間だけのフィールドでなくなるのは時間の問題だ。

NHK番組『クローズアップ現代+ 進化する人工知能 ついに芸術まで』の中で、面白い話があった。


人工知能が作曲した曲を「これは私が作曲した曲です」と教えて曲を聴かせたグループと、「これは人工知能が作曲した曲です」と教えて曲を聞かせたグループとに分けたところ、後者の評価は低くなったという。「機械が作った」という事実(情報)がバイアスを与えたのだろう。

芸術や文学も、ときにバイアス(思い込み)の影響を受ける。バイアスを排除できるかどうかは客観的かつ論理的に見れるかどうかだ。それができなければ、バイアスの影響を多分に受けてしまう。「この作品は文学的に優れている」と思っているのは、「名作と言われている」「巷では面白いと人気」「○○賞を受賞している」という情報が与えた結果かもしれない。私が「この小説の文学要素をわかるように説明して」と質すのは、バイアスの有無を見ているからでもある。芸術や文学は感覚的なもので説明不可能という姿勢は、単に理解しようとしていない(または理解していない)だけだ。

話は冒頭に戻るが、これらの見地から文系か理系かに分ける意味はほぼない。本質的には区別することはできないし、したところで意味をなさない。

私自身、書籍や映画を見て心を動かされた時、「なぜ感動したのか」を読み解き、または内観して言語化したくなる。人に説明したくなる。「文学は説明できない」と言われると、「好きな作品を論評したくないのか?」と思ってしまう。

ずいぶんと話が長くなったが、要は「文系か理系で区分けできないよね」という話をしたかったのである。

 

以上。