読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

1851年出版の『読書について』が出版業界の問題点を鋭く突いている

書籍

久々に名著に出合えた。
哲学者ショウペンハウエル氏の著書『読書について』だ。本ブログでは2回に分けて本著を紹介していきたいと思う。第一回目は、出版業界についての記述を紹介しよう。 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

『読書について』は、1851年ドイツで出版され、日本では1960年に翻訳本が出版され。これから紹介する引用は、150年以上前のドイツの出版業界を指しているが、「なんだ、他国の昔の業界事情か」と思わないでほしい。「日本の出版業界のことを書いているのか?」と錯覚するほど現状を言い表わしているのだ。


ショウペンハウエル氏は、著書の中でとにかく業界への不満を舌鋒鋭く批判している。私が出版業界に抱えている不満とまさに一緒だった。まずはこの一文を紹介しよう。

書名は手紙のあて名にあたるべきものであるから、先ずその内容に興味を持ちそうな読者層に、その書物を送付する目的をもつはずのものである。(中略)
したがって冗長な書名、何一つ特徴のない書名、曖昧不明瞭な書名、あるいはそれどころではなく内容を偽った見当はずれの書名はいずれも、つたない書名である。しかしもっとも悪しき書名は、盗み取ってきた書名、言い換えればすでに他人の著書のものになっている書名である。その理由は第一にそれが剽窃であること、第二にそれはその著者に独自性がまったく欠けていることを遺憾なく証明することである。すなわち自分の著書の書名を新しく案出する程度の独自性さえない者に、どうして新しい内容をもった著書を公にすることができるだろうか。(p33)

書名とは、本のタイトルを指している。
「冗長な書名」「何一つ特徴のない書名」「曖昧不明瞭な書名」は、日本でも見かけるが、興味を引く力がないため、購入されることはそうそうない。しかし、「内容を偽った書名」「盗み取ってきた書名」は問題だ。タイトルに騙されて購入してしまう人がいるからだ(私もよくある)。

まず「内容を偽った書名」だが、日本の書籍でもタイトルと中身が一致していないものをたまに手にすることがある。または、タイトルに沿った話は2割程度で、後は関係ない話をつらつらと綴ったような書籍もある。近場に書店があれば立ち読みしてハズレを回避できるが、そうでない者(私も)はAmazonでタイトル買いをするため、一定の確率でババを引いてしまう。こうした書籍を購入するたび、私は著者と出版社の良心を疑いたくなる。確かにタイトルは売れ行きを左右する重要な要素だが、だからといって購入後に不満を与えるようなタイトルを付けるのがいいはずはない。

「盗み取ってきた書名」だが、もうこれは品性のかけらもない。名著のタイトルに真似たり、ベストセラーのタイトルをあやかったりする書籍からは、作家の矜持が感じられない。出版社も然りだ。


これに関連する引用ももう一つ。

芸術や文学の世界では、ほとんどいつの時代にも、誤った主義主張や方法、手法が流行し、迎えられる。(中略)
流行作法にしたがった一切の作品からは、けばけばしい脂粉がはげおち、醜悪な石膏細工で飾られていた壁から、その細工が落ちてしまったように、それからはただ無残な姿をさらけだすだけである。(p41-42)

この一文から想起したのは、売れた表紙やタイトルを真似る風潮だ。
『国家の品格』が売れれば安易に『○○の品格』と真似た書籍が次々と出版され、『もしドラ』が流行れば萌え系を表紙にした書籍が出回る。『伝え方が9割』がヒットすれば『9割』を謳った書籍が溢れ、『嫌われる勇気』が人気となれば瞬く間にアドラー本が出版される。このような書籍からは品格が感じられず、9割は悪書だと考え、私は買わない勇気を持って購入していない。


続いては、こちらの引用を読んでほしい。

現在、非良心的な三文文筆家巷にあふれ、無用な悪書がいよいよ氾濫して悪徳をまち散らしている。このような風潮に対しては、評論雑誌が立ってそれを防ぐダムの役を果たすべきであろう。すなわち評論雑誌は、清廉潔白な態度で正当厳重な判断を下す必要がある。無能著作者が拙作を発表し、頭は空の連中が空の財布を満たすため、書きなぐりに励み、その結果、出版図書のほとんど九割までが悪書駄作の始末である。この拙作、書きなぐり、駄作をいちいち容赦なく槍玉にあげ、情欲に近いめちゃくちゃな執筆意欲や詐欺的売文の阻止に努めなくてはならない。(p42-43)

こちらは評論雑誌について言及している。日本では、書評をメインにした雑誌は私が知る限りない。ただ、書評に一定のページや紙面を割いている雑誌はいくつもある。匿名での批評は少ないものの、では、悪書を阻止するダムの役目を担っているかと言えば、疑問が残る。

ショウペンハウエル氏は、悪書駄作を阻止するには、容赦なく槍玉にあげるべきだと説く。私もその考えに賛成だ。雑誌や新聞の批評は、推奨文が多く、批判的なものは少ない。「悪書駄作を書いたら公の場で批判される」というプレッシャーは、執筆意欲や詐欺的売文の阻止に大いに貢献するだろう。Amazonでババを引く確率も下がって来るに違いない。

「悪書駄作」に関連する話題の一つに、著書『殉愛』(著者 百田尚樹)がある。本著は、故・やしきたかじんさんの闘病生活を記したノンフィクションだが、たかじんさんの長女が名誉毀損で訴訟。7月29日、東京地裁(松村徹裁判長)は出版社に対し330万円の支払いを命じた。つまり、『殉愛』に事実ではない記述があり(ノンフィクションではなかった)、長女の名誉を棄損していた事実が認められたのだ。もしかしたら、出版社(幻冬舎社)は控訴するかもしれないが、本件について批評家はどのように著書を評価するのだろうか。

故・やしきたかじんさんと著者がどれほど親交があったか私は知らないが、常識的に考えて、故人を題材にした著書の中で故人の長女の名誉を傷つける話を書くのはいかがなものだろうか。たとえ、それが事実だとしても、だ(今回は、事実でない記述が数カ所あったわけだが)。このような著書を批評家が批判しなければ、悪書駄文の阻止するダムにはならないだろう。


最後に、続いての引用はこちら。

自分の発言を自分の名前で主張できない者が、ただ匿名の方法によるだけであらゆる責任から逃れたり、それどころか出版業界から酒手をかせぐために悪書を読者に奨めたりする低劣俗悪な者が、この有効な方法でその恥ずべき行為を隠したりする事件である。(中略)
この匿名という物陰に身をひそめることが我が身保全の道であると考えるようになれば、青年たちは信じがたいほど破廉恥な精神のとりこになり、いかなる文筆的悪事にもひるまないことになる。(p46-47)

 

匿名で書いたことのない人々に匿名による攻撃を加えるのは明らかに破廉恥行為であり。(p49)

批評家の匿名性について書かれた一文だが、現代のSNS社会を彷彿とさせる。特にTwitterでは、実名アカに対して匿名アカで絡む人を散見するが、あれはフェアではない。失うものがある者とそうでない者の差は大きい。ショウペンハウエル氏の言う破廉恥行為だ。それにしても、150年も前の書籍にもかかわらず、現代を見透かしている記述には読んでいて本当に驚いた。


今回私は多少なりとも『殉愛』(著者 百田尚樹)を批判したため、実名ブログで記すことにした(基本、実名で活動していますけどね)。

理想を言えば、Amazonのレビューも実名制にして欲しい。なぜなら、買ってもいないレビューやステマレビューで溢れているからだ。実名制にすれば、そうした破廉恥行為は大幅に阻止できるだろう。

以上。

 

 

関連書籍

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

殉愛

殉愛

 

 

百田尚樹『殉愛』の真実

百田尚樹『殉愛』の真実