斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

才能を開花させるためには、才能を知る必要がある

私は、才能を明確に定義することができる。
才能とは「資質(能力)の組み合わせである」と。

私の知り合いに、人並み外れて話を回すのが上手な人がいる。ここでは、D氏と呼ぼう。D氏は、複数人の話を咀嚼し、誰にでも分かるように話を例え、まとめてくれる。変な間も生まれず、お陰で皆楽しく会話ができる。これはD氏の持つ才能だろう。

その才能を構成しているもの。それが資質である。
D氏の場合、「聞く力」「例える力」「まとめる力」「話す力」「客観視する力」「空気を読む力」など複数の能力によって、「話を回す」という才能を開花させている。おそらく、一つでも欠けた場合、この才能は開花していないだろう。

上記のように「○○の才能」というのは、いくつもの資質によって成り立っている。資質には、持って生まれたものもあるだろうが、後天的に養えるものもある。

たとえば、「バッターとしての才能」が欲しいのなら、バッターはどんな資質によって成り立っているのか分解してみる。「動体視力」「反射神経」「ピッチャーへの考察力」など、いくつもあるだろう。そして、自分が持って生まれた資質、足りない資質を割り出し、足りないものを努力で補えばいい。

「○○の才能」を構成している資質は何なのかを分解してみることで、より客観的に自分の能力を把握できるはずだ。

 

 

その資質はほかでも活かせないか

先天的にしろ、後天的にしろ、何かしらの資質を有していたとしよう。
その資質は、ほかの分野でも活かせるはずだ。「一芸は百芸に通じる」という諺があるが、これは自分の有する資質を活かしたときに起きる現象だろう。

D氏の例で言えば、彼の能力は、コーチングやカウンセリングなどに活かせるかもしれない。このように資質が活かせる分野を見つければ、新たな分野で才能を開花させることも可能なのだ。

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よくある才能の誤解

「才能か努力か」などと、二者を比べる人や記事をたまに見る。
正直言って、二者を比べる意味が私には分からない。どんなに優れた才能があっても努力しなければ、才能は開花しない。このような話をすると、「努力できるのは才能」と言葉遊びをする人も出てくる。だが、先ほども言った通り、才能は資質の組み合わせである。努力はそれとは違う。努力について言及しておくと、努力とは、「時間をかけること」である。
※詳しくはこちら、「無駄な努力はするな! 効果的な努力に必要な3つの要素」を参照して欲しい。


これと同様に「好きは才能」などと言う人もいる。好きを才能に包摂したがるのもよく分からない。きっと、資質がない人が、せめて自分が持っている気持ちを才能と定義して自身を慰めたいのだろう。はっきり言うが、好きは才能ではない。誤解して欲しくないのだが、「好き」という感情を卑下しているわけではない。好きという感情はとても大切で尊いものだと思っている。だが、しっかりと現実を見つめるためには、客観的に区別する必要があるのだ。

「好き」という感情は、どちらかというと努力を続けるうえで役に立つ。練習などが苦にならなければ、長時間練習に励むこともできるからだ。「好き」は才能に関与するものではなく、努力に寄与するものと言えるだろう。

 

 

まとめ

才能とは資質の組み合わせである。自身のいる分野に必要な資質を洗い出し、足りているもの足りないものを客観視することが大切だ。そうすれば、冷静に足りない資質を努力によって養うことができる。また、自身の持つ資質が分かれば、他の分野で資質を活かすこともできる。
ぜひ、資質を磨き、あなたの才能を開花させていただきたい。

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0

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