斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

素人が無理して芸術を語らなくたっていいんだよ

私はショパンが好きだ。聴いているだけで不思議と心が安らぐ。散歩中や移動中、イヤホンで聴く音楽はショパンと決まっている。雨天の憂鬱な時間や退屈な休日にも部屋にこもり聴いている。一通りクラッシックを聴いてきたが、ショパンが一番肌に合うようだ。

そんな私だが、「ショパンの何が素晴らしいのか」と問われても、「よくわからないけれど落ち着く」としか答えられない。造詣深い一言も含蓄ある回答もできやしない。なぜなら私は、作曲をしたこともなければ、ピアノを弾いたこともないからだ。ショパンに限らず、クラシックの深遠さを理解できるのは、作曲家か演奏家だけだ。

以前、こんな話を聞いた。
「家に遊びに来た友人から『なんで同じ曲(クラシック)のCDを何枚も買ってるんだ』と聞かれて、『同じ曲でも指揮者が違うとまったく違う曲なるんだ』ってことを上手く伝えらえない」と。

この差は、経験知(暗黙知)から生まれる。
音楽未経験者でも指揮者によって曲調が多少違うぐらいは理解できるだろうが、演奏者や指揮者ほどではない。いくら未経験者が御託を並べても、所詮それは経験知(暗黙知)を伴っていない感想にしか過ぎない。これは、音楽に限った話ではない。

たとえば絵画。作品の技巧や表現を真に理解できるのは、絵を描いたことのある人間だけだ。絵を見ただけで筆使いや色選びの思索まで読み取ることができる。これは未経験者ではできない。

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そのことをよく言い表しているものがある。言語脳学者の酒井邦嘉氏と指揮者の曽我大介氏との対談を記した書籍『芸術を創る脳』である。

 

酒井 指揮と作曲は違いますか? それとも方向性は似ているものでしょうか?

曽我 全く違いますね。指揮者が作り手の気持ちを考えるというのは、作曲してみないと上手くできないものですから。
作曲家の間宮芳生(まみやみちお)先生から面白い話を聞いたことがあります。作曲中にインスピレーションが湧きだしてくる瞬間というものがあって、その瞬間はあらゆうことが理論整然と素晴らしく順序立てて頭の中に湧き出てくる。それが止まらなくなって書き続けるのです。それなのに、例えばベートヴェンの時代だったら、女中が「だんな様、ご飯できましたよ!」とやって来る(笑)。そうなると集中力がプチッと途切れてしまいます。現代では、携帯電話が鳴るとか、宅配便の配達でチャイムを鳴らすとかで途切れるでしょう。その瞬間にとぎれてしまったものを、後からつなぎ合わせる必要が出てきます。そのつなぎ目が、実はどの作品にもあるというのです。
そのとき私はよく分からなかったのですが、いざ自分が作曲をするようになったら、その意味がとてもよく分かるようになりました。そうしたら、ほとんどの曲に継ぎ目がみえてくるわけで、そこに何かしらの無理が残っているのです。

芸術を創る脳: 美・言語・人間性をめぐる対話

芸術を創る脳: 美・言語・人間性をめぐる対話

 

 

作曲するようになったからこそ見えてくる世界だ。このように、未経験者と経験者では、読み取れる領域や深度が全く違う。


未経験者は、どんな作品も理解できないと言うつもりはない。私の好きなNHK番組「美の壺」のように鑑賞のツボさえ知れば、今まで以上に作品を深く鑑賞できるようになるだろう。これはこれでとても大切なことだ。ただそれはあくまでも、知識知(形式知)でかしない。知識知をどんなに積み重ねても、それが経験知に変換されることはない。未経験者が理解できるほど、どの世界も浅くはないのだ。

だから私は、未経験な領域の作品は、卑近な感想だけを述べるようにしているし、卑近な感想しか出てこない。それが自然だと思う。

美術館の作品を鑑賞して、「やっぱり、○○の作品はすごいわ。云々カンヌンで鳥肌立っちゃったわ」と聞くと、「お前本当にそう思ってんのか?」と突っ込みたくなるが、ぐっと飲み込み「そうだね」と答えている。素人目から見ても、興趣や高尚さが伝わってくる作品は確かにある。皆が皆、知ったかぶりしているとは思わないが、解らないものは解らないとしたほうが私は得るものが多いと考える。少なからず「無知の知」だけは得られるのではないだろうか。