斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

正論を唱えても、「はい論破」できない理由とは

今回は、安保法案を例に「正論」について語りたいと思う。

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私は、正義がいくつもあるように、正論もいくつもあると考えている。なぜなら、立脚点の数だけ論が立てられ、論の数だけ正論も立てられるからだ。※立脚点とは、よりどころとする地点。考えたり行動したりするときの立場。

正論とは、立脚点から結論までの前提条件をはじめ、根拠や理路に矛盾や飛躍がなく、辻褄があっている論を指す。

安保法案を例に解説しよう。
憲法の視座から立脚して論理展開すれば、必然的に安保反対になる。「国は憲法を侵してはならない→安保法案は違憲である→安保法案は反対」。
国防の視座から立脚すれば、必然的に安保賛成になる。「中国は日本に対して武力行使してくる→現状の憲法で中国の脅威に立ち向かえるのか→不可能→集団的自衛権は抑止力になる→安保賛成(憲法解釈の変更、賛成)」。(便宜上、かなり大ざっぱに論理展開しているが、お許しあれ)
どちらが正論かではない。立脚している視座から見れば、どちらも正論なのだ。

私は、憲法から立脚しているため安保には反対である。
そんな私が「違憲だから安保は反対だよ」と言えば、「自衛隊は違憲だという意見もあるけど、もし自衛隊が違憲だったら認めないのか」と反論する人が現れる。憲法から立脚している立場からすれば、「仮に自衛隊が違憲であるならば反対だよ。解散すべき」と答える。「じゃ、災害時はどうするんだ。国防はどうするんだ」とまた反論される。この反論は立脚点が違う。国防のから立脚して反論されても噛み合わない。では、私が「自衛隊は認める」などといえば、それこそ辻褄が合わなくなる。自衛隊が日本とって必要なら憲改して認めればいい(それが難しいのも知っているが)。これは、安保法案でも同じである。私は憲法の視座から立脚して反対しているため、改憲さえすれば安保法案にも賛成だ。


自衛隊、安保法案を例に挙げたように、憲法から立脚している人に国防から立脚して反論されても噛み合わない。ここを互いに理解し合い、落とし所をつけるのが対話や議論である。「彼奴らは、話がわからないバカばっかりだ」と罵り合っても仕方ない。話が理解されないのは、互いに立脚点が違うからである。それをお互いに理解しようとしないからである。まぁ中には「憲法9条、マジ神」「中国人、韓国人は全員死ねばいい」といった、議論するに値しない人もたまにいる。

反論とは、相手がどこから立脚しているのか、その立脚点から結論までの前提や理路に誤りや飛躍はないのかを見て、あればそれを指摘するものだ。それが本来の反論である。全く違う立脚点から反論していては、噛み合わず、平行線を辿るだけだ。安保における現状がまさにそれだ。

議論をする際に大切になるのは、相手の立脚点を理解して、論理展開をよく観察することである。私は、私と異なる意見の人に向けて意見を述べる際、「わかるわかる。そこから立脚すれば、そういう結論になるよね」と、相手の論理を理解してから意見するようにしている。これが、対話(議論)する際の心構え、流儀だと思っている。

私は、前述したように憲法から立脚しているため、安保には反対だが、安保賛成の意見の中にも正論があることを承知しているし認めている。

議論する際、本気時のことを少しでも思い出して頂ければ幸いだ。

 

 

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