斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

映画『かぐや姫の物語』を評論してみた

映画『かぐや姫の物語』を観てきた。
実に、読み応えのある映画だった。記憶が薄れる前に、私がどのように読み解いたのかをここに記してみたいと思う。

 

 

かぐや姫の物語は、生と死を描いている

かぐや姫の物語を観た率直な感想は、『この映画は、生と死を描いている』だ。なぜ、私がそう思ったのか。

映画のラストシーンを思い出してほしい。月からの迎えに来る雲の上には御釈迦様がいる。御釈迦様は、あの世を象徴する登場人物である。また、ラストカットでは、月と赤ちゃんが重なった絵が映される。あれは、生まれ変わりを示唆しているのだろう。

月はあの世(極楽)であり、地球はこの世。
こう考えるとすべての辻褄が合ってくる。

この読みを裏付ける証拠はまだある。それは主題歌の歌詞だ。主題歌『いのちの記憶』の歌詞は、明らかに死(死生観)を意識して書かれている。歌詞の一部を書き出す。

たとえ このいのちが終わる時が来ても いまのすべては
過去のすべて 必ず また会える 懐かしい場所で

ちなみに、この歌詞を探していたら、『いのちの記憶』を歌っている二階堂和美氏のインタビュー記事があった。その記事には、こう記されている。

二階堂:最終的には原典と同じく、かぐや姫は月に帰っていくんですけど、それが<死>というものに重なると感じたし、監督もそれを言われてました。

引用元:http://realsound.jp/2013/11/post-165.html

 

このインタビューからも、『かぐや姫の物語』は、死と生を描いていると思って、ほぼ間違いないだろう。いのちの記憶と言えば、月の住人の一人が歌を口ずさみながら涙を流すシーンがある。かぐや姫はそれを見て、あの住人には地球に忘れられない記憶(いのちの記憶)があるのだと思いを巡らせ、地球に行きたいと願う。地球に行きたい、それは「生きたい」の意でもある。

ちなみに、住人が口ずさんだ歌を一部紹介すると、
「鳥 虫 けもの 草 木 花 人の情けを はぐくみて」。自然を題材にした歌であるのが分かる。

 

 

月の世界で犯した罪

あの世からすれば、この世は不浄の世界。
この世での生を望むことは、あの世への冒涜であり罪なことなのだ。つまり、あの世(極楽の世界)ではなく、この世(不浄の世界)を願うのだから当然である。
かぐや姫が生まれてきた理由、それは、生きるためである。

では、生きるとは何か。これが、この映画の肝になるだろう。

かぐや姫は、山の中で生活している際は、生き生きとしている。都に上り、高貴な姫として育てられるのだが、かぐや姫はそれを快く思わない。何度も、山の生活を思い出したり、前の生活に戻りたがるシーンがある。

 

今思い出せるだけでも

・夜遅くまで筆で動物の絵を描いていた
・宴会を飛び出し、元いた山に帰る
・鳥かごの鳥を外に出して逃がしてやる
・畑を山に見立てて耕す
・バッタを畑に逃がしてやる
・桜の下で元気にはしゃぐ
・貴公子の一人から「この生活から抜け出して自然とたわむれよう」の言葉に反応する。
・月の迎えが来る前にまた山に帰る
・捨丸から「お前が俺たちを一緒に暮らせるわけがない。時には草の根を食べたりもする。泥棒まがいのこともするんだぞ」と言うと、「それでも構わない。生きている手ごたえさえあれば」と言う。

かぐや姫にとって、高貴な姫としての生活は、月の生活と変わらなかったのだ。つまり生きている手ごたえがない。自然と生きることが、かぐや姫にとっての「生」であり、生きている手応えを感じている時間なのだ。一言で言えば、60代以上の大人(代表的なのは宮崎駿)が口にしそうな、「人は自然から離れては駄目だ。人は自然と共に生きねばならない」というメッセージに思えてくる。そして、都の生活は、現代人がしている快適便利な生活を指しているのではないだろうか。いずれにしろ、かぐや姫は「生」を望んだことが罪とされ、地球に降ろされた。では、「生きる」ことを望んだのが罪ならば、罰は何だったのか。

 

 

かぐや姫に課せられた罰とは

かぐや姫は、罪を犯した。それはこの世での『生』を求めたことだ。
では、罰とは何なのか。先に私の答えを言ってしまえば、それは死を求めることだ。死を求めることが罰であり、死を求めることは同時に罰を終えることでもある。

帝から求婚され、後ろから抱き締められた時、かぐや姫は「もう嫌だ。この世界から居なくなりたい」と願った。それは死を願ったのと同じだ。その瞬間、罰が解けた。同時に、かぐや姫はすべての記憶を思い出す。なぜ、私が生まれてきたのか、何処から来たのか。思い出してから、かぐや姫は後悔する。なんてことを願ってしまったのだろうと。

その後、月から迎えが来る。かぐや姫は意識がないような状態で雲の上に乗せられるが、女童と子供たちがわらべ歌を歌ったことで、意識を取り戻す。かぐや姫は御釈迦様に懇願して一時の猶予をもらい、育ての親、翁と媼に涙ながらに別れを告げる。

月から来た使者の一人がその様子を見て、「そのような心の乱れも、この世界の汚れも、この羽衣を纏えばなくなる」とかぐや姫に囁くが、かぐや姫はそれを全否定する。「この世は汚れてなんかいない。鳥、虫、けもの、草、木、花、人の情けも」と言ったところで、不意を突かれ天の羽衣を纏わされてしまう。そして、月へと連れられて行く。かぐや姫を乗せた雲が宇宙まで行くと、かぐや姫は後ろを振り向き、地球を見る。そしてその時、かぐや姫は涙を流す。

この涙の解釈は、人によって違うだろう。私の解釈は、かぐや姫がこの世で生きたから流れた涙なのだ。思い出してほしい。かぐや姫は、月の住人が歌を口ずさみ涙したのを見て、あの人のように生きてみたいと思ったのだ。

かぐや姫が天の羽衣を纏ったにもかかわらず、涙を流せたのは、生きた証であり、いのちの記憶を魂に刻んだからなのだ。

少し脱線するが、『かぐや姫物語』の評価をネットで覗いてみると、かぐや姫は支離滅裂な奴と書かれている。しかし、そんなことはない。キャラクターとして筋の通った言動をしている。生まれてきた経緯や、生きるとは何かと考えてみれば、言動が一致しているのがよく解かるはずだ。

 

 

月は死を願うように誘導していた

翁は、竹林の竹の中からかぐや姫だけではなく、小金や着物まで見つける。翁はこれを天からの思し召しと受け取り、かぐや姫を高貴な姫に育てなければならないと考えるようになる。また、かぐや姫は数々の天賦の才に恵まれてもいた。これらは、月がかぐや姫を都に行くよう誘導しているように見える。言い換えれば、死を望むように誘導していると捉えられる。

『かぐや姫』という名前を授かり、襲名を祝う宴会が催される。宴会中、客人の心ない会話を耳にし、かぐや姫は宴会を抜け出して疾走する。CMで流れるおなじみのあのシーンだ。町の中を走りながら十二単を脱いでいく。このシーンに月が大きく映し出されているのに気づいただろうか。また、野や山をかける時も常に月が描かれている。

これを私なりに解釈すると、この世の俗世界が嫌になり逃げだすのは、「この世にいたくない」という死に近い願望であり、つまりは、月(死)に近づいているとも読みとれる。それを絵で表現しようと月を大きく、しつこく描いているのだろう。月からすれば「しめしめ」と、物事が思ったとおりに運んでいると喜んでいたに違いない。

 

 

かぐや姫は2度死んでいる

宴会から逃げ出したかぐや姫は、自分が育った山に帰るのだが、そこには捨丸たちはおらず、山も枯れ木ばかりだった。山を下り、かぐや姫は道中、雪の中に倒れ込む。その時「この景色、どこかで見たことがある」と月の世界を思い出すのだ。すると、大きな月が見守る中、どこからともなく妖精のような生き物(月の生き物)が、かぐや姫を囲む。そして、かぐや姫は瞼を閉じる。

瞼を開けると、宴会から飛び出す前の時間に戻っていた。しかし、疾走する前に割った貝絵は割れたままだった。おそらく、かぐや姫が月の景色を思い出したのは、死を示唆しているのだ。そして、月(あの世)が、かぐや姫の時間を戻したのだろう。かぐや姫が罰を終える前に死んでしまったからだ。これが1度目の死だ。

2度目の死は、もう一度山に帰り、捨丸に会った時だ。「捨丸は一緒に逃げよう」と言い、かぐや姫と逃げ出す。すると、体が浮き、海や山などを駆け巡る。夜、月に見られて動揺したかぐや姫は、捨て丸とともに海へと落下していく。捨丸が目を覚ますと、かぐや姫と会った場所と時間に戻っていた。かぐや姫も籠に乗り、都へと戻っていく。捨丸は「なんだ、夢か」と呟くが、あれは夢ではない。確かに一度死んだのだ。1度目かぐや姫が死んで時間が戻っていたように、捨丸とかぐや姫の時間は戻っていたのだ。

 

 

運命か必然か、それとも

映画『かぐや姫の物語』も半年前に公開された『風立ちぬ』も、同じ「生きる」が重要なメッセージになっている。偶然なのか、必然なのか、それとも意図的なのか、くしくも同じ年に公開した映画が同じメッセージを含んでいるのだ。

高畑監督は、この映画を通じて「宮崎駿よ、俺が『生きる』を表現するなら、こう描くぜ!」と伝えているようにも思える。そうでないにしても、同じ年に同じメッセージを含んだ映画が作られるとは、なんともいえない縁を感じる。二人は、いいライバル関係なのだろう。

以上が、私なりの『かぐや姫の物語』の評論である。ほかにも言いたいことはあるが、キリがないので、ここら辺で終わりにしよう。『かぐや姫の物語』は、『風立ちぬ』に並ぶ最高傑作の映画だった。

以下は、個人的に好きだったものだ。

 

 

翁の演技力は真に迫る勢い

かぐや姫の育ての親、翁の演技力に目を見張った。
赤子のかぐや姫が立ち上がり、翁が「ひーめ おいで」とかぐや姫を呼ぶのだが、その時の声と抱きしめた時の声がなんとも素晴らしい。かぐや姫を愛おしむ気持ちがひしひしと伝わってくる。久々に、声の演技に心を打たれた。

翁役を務めた地井武男氏は、2012年6月29日に死去された。『かぐや姫の物語』は、アニメ映画の遺作となった。素晴らしい演技を残してくれたことへ心からの賞辞の言葉を贈りたい。アニメ映画に残る名演技ありがとうございます。

 

 

水墨画調の絵と色使いが良い

絵は、水墨画調に描かれており、時代感を演出している。
鳥が木に止まって囀る絵があるのだが、これが本当の水墨画だと見間違うぐらいよく描けている。この絵に自信があるのか、2回ほど同じようなシーンが出てくる。他にも花や風景を度々描いているので、花鳥風月を意識しているのかもしれない。

もう1点、好きな演出は色使いだ。日本伝統色が多く、派手な色遣いはない。また、空に青をほとんど使わず、白くしているのが良い。もしあの絵の空に青を入れたならば、絵全体が死んでしまうだろう。また、雪の中をかぐや姫が歩くシーンがあるが、そこでも色のメリハリを意識している。あえて赤い着物のボロを少し残しているところが良い。赤が入ることで雪の白さが映えるのだ。

このような細かい芸が随所に見られる。

 

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