斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

才能のない人は、努力ではなく、戦略が必要

私は中学生のとき、陸上部員だった。種目は100m走の短距離走選手。
陸上の経験者なら周知の事実だが、短距離走選手には才能は不可欠だ。

自分で言うのもなんだが、私は短距離走選手として才能があった。小学生の頃から足が早く、中学に入ると、陸上部の顧問からスカウトされた。しかしその才能に甘え、練習をよくさぼっていた。

部員の中には私と同じ短距離走選手が、同級生に2人、後輩に4人いた。彼らは朝も夕も練習に励んでいた。だが、私のタイムに追いつくことはなかった。3年間の努力は才能には敵わなかったのだ。

100m走でオリンピックに出場した為末大選手も私と同じ趣旨の発言をTwitterでした。彼は選手として真実を語っただけなのだろう。だが、それを受け入れたくないフォロワーから批判を浴び、炎上した。私は、彼の言う真実に早くから気づくことができて良かったと思っている。

諦める力?勝てないのは努力が足りないからじゃない

諦める力?勝てないのは努力が足りないからじゃない

 

 

もう一つ例を挙げよう。
同じ中学の陸上部に、私以上の才能を持った先輩がいた。
先輩は走り幅跳びの選手だったが、私以上に練習に参加しなかった。にもかかわらず、全国5位の成績を収めたのだ。おそらく、全国の中学校では、毎日練習に励む選手がたくさんいたに違いない。先輩は、そんな彼らを才能で圧倒した。努力すれば報われるとか、そういう次元ではないのだ。

 

 

現実は残酷なのか

「努力では埋められない才能がある」。私が中学生の時に悟った真実だ。
また、こうも思った。「身体的な才能は、肉体という制限がある。だが、制限のない脳は、もっと残酷なほど差があるのではないのか」と。

テレビを見ていると、天才と称される子供が登場することがままある。
一度聴いた音楽を奏でたり、10歳で一流大学を卒業したりと、人並み外れた才能を持つ子が存在する。テレビで紹介される子たちは、希有な存在とは言え、いかんともしがたい才能の差が確かに存在するのだ。

では、才能がなければ努力をしても大成できないのか、と言うと、そうとも言い切れない。才能が重視されるものもあれば、努力が重視されるものもあるからだ。
もう一度、陸上の話に戻そう。

陸上には、長距離走がある。長距離走で良い成績を収めるには、才能よりも努力のほうが重要だ。というより、才能はあまり関係ない。長距離走ほど努力が報われる種目はないだろう。それぐらい、練習量や努力が成績に影響する種目なのだ。

同級生に長距離走選手がいた。1年生の頃のタイムは十人並みで、地区予選で落ちていた。だが、3年間真面目に練習に励み、県大会に出場するまでに至った。

短距離走には才能が必須だが、長距離走には努力が必須だ。才能や努力のウエイトは、分野によって異なる。今回は、短距離走、長距離走の二極を紹介したが、分野によってはその間のものもあるだろう。才能5:努力5の分野もあれば、先ほどの極端な例のように、才能8:努力2や才能2:努力8の分野もあるだろう。
才能か、努力か、という論ではなく、自分のいる分野はどれぐらいの比率なのかと考えるぐらいの柔軟性は必要だ。

 

 

才能や努力よりも重要なこと

先ほどの話を聞いて「才能が必要な世界なのに、自分には才能がない」と肩を落とした人もいるかもしれない。だが、肩を落とすにはまだ早い。戦略次第では、才能がなくても勝ち残ることができる。いい例を紹介しよう。

漫画家・西原理恵子氏の書籍「この世で一番大事な『カネ』の話」はとても参考になる。
参考部分の話を私なりに要約して伝える。
西原氏は、美大の予備校のテストで最下位を取る。このとき、他の生徒たちに絵の才能では勝てないと悟る。学校にあまり通わず、成人用カットを描くようになる。そして後には、一般雑誌に漫画やイラストを描くまでになり、今では書籍まで出版している。

絵は才能が必要とされる世界だ。絵を描くことが好きで才能に溢れた人は大勢いる。しかし、その中で生き残れるのは、ほんの一部の人間だけ。そんな厳しい世界で、才能のない人間が太刀打ちできるはずがない。

もし凡人が勝てるとしたら、そのカギは戦略にある。西原氏はその戦略が上手かった。
芸術家を目指す才能に溢れた人は、成人用雑誌のカットなんて描かない。才能やプライドが許さないからだ。それを見据えて成人用雑誌のカットを描き続けた西原氏は戦略家だ。
本書には、こんな一文がある。「最下位には最下位の戦い方がある」。
才能がなければ、才能がないなりの戦い方があるのだ。

生きる悪知恵 正しくないけど役に立つ60のヒント (文春新書 868)

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私にも才能はない

私は、企業の広告物や販促物の制作を生業の一つとしており、コピーを書くことが多い。しかし、自分に文才があるとは微塵も思っていない。学生の頃から書くことが嫌いで、作文で賞を受賞した経験すらない。才能もなければ好きでもなかったのだ。

だが私は、売れる広告物や販促物の制作を得意としている。広告類は、コピー力(文章力)よりは、消費者の欲求を理解したり、調査したりするほうが大切だ。表現の上手さなどは売り上げにあまり関与しない。つまり、文才はさほど重要ではないのだ。

本当に文才のある人は、私のような“言葉で商品を売る”という泥臭い仕事は選ばないだろう。東野圭吾氏、村上春樹氏、宮部みゆき氏が私と同じ土俵に上がることはまずない。なぜなら、類稀なる文才があるからだ。文才のある人は小説家やエッセイストを目指すだろうし、そのほうが才能を活かせる。
そのため、私は文才のある人と競合になることはない。私も気がつけば西原氏と同じ戦略を取っていたのだ。

そして、自分が勝てる世界で勝ち続けていれば、上の世界に行ける可能性が出てくる。
たとえば、コピーライターから小説家になる人は多い。いきなり小説の世界に挑めば大敗を喫するが、コピーライターの世界で生き残り、力を付けた後なら小説の世界で生き残れる可能性はある。
西原氏も、成人用雑誌のカットを描き続けてきた結果、絵の世界で生き残ることができた。そして今では、自分の描きたいイラストを描いて、本の出版までしている。

才能のない人間は、いきなり才能のある人たちのいる世界に飛び込んではいけない。一つ二つ遠回りをしていく必要がある。これが、才能がない者の戦い方だ。

 

 

才能がないことを認める

人は、自分が好きなことに対して才能があると思いたがる。
中には、「好き=才能」と言う人もいる。

残念だが、好きという感情は才能ではない。才能とは、生まれ持った優れた能力である。熱したり冷めたりする感情は、才能の定義から外れる。

好きなことで成功を収めたいのであれば、まずは現実を受け入れる必要がある。才能がない者は、才能がないことを早めに受け入れることだ。
好きという感情を才能と勘違いしてしまうと、戦略を見誤る。才能がないのに才能があると勘違いして戦えば、ほぼ確実に負ける。先ほどから話してきたように、才能がある者と才能がない者とでは、戦い方が異なるのだ。

ここで紹介したい書籍がある。『学ぶ意欲の心理学』(著者 市川伸一)だ。
本書は、人が学ぶ際の意欲について言及しており、学び以外でも活用できる知識が詰まっている。その中でも、動機(意欲)についての記述がとても参考になる。
下の図を見てほしい。

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この6つを大きく二つに括ると、内発的動機と外発的動機に分かれる。
1に近づくにつれ内発的動機になる。6に近づくにつれ外発的動機になる。
「好き」という感情は、1の充実志向になる。

肝心なのは、内発的動機の「好き」も、外発的動機の「お金のため」も、動機の一種なのだ。もし、好きを才能と定義するならば、動機すべてを才能と定義しなければならない。つまり、お金のためにすることも才能となってしまう。

本書には、興味深い内容が他にもある。
内発的動機は、強い外発的動機を与えると失せてしまうのだ。
たとえば、勉強を好きでしていた子に、「良い点を取ったら○○を買ってあげるよ」と外発的動機を与えると、好きという感情が消えてしまう。

学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

 

 

冒頭に私は、「才能とは生まれ持った能力」と述べた。外発的な影響で意欲が失せたり芽生えたりするものではないのだ。「好きは才能」と言いたがるのは、才能がない人間の自慰行為である。

私は何も、才能がない人間をいじめたいわけではない。才能と動機を区別させようとしているのは、自分と他人を客観的に分析する必要があるからだ。孫子の兵法で言えば『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』だ。

好きという感情はそのまま大切にしておけばいい。行動や努力の原動力になるのだから。

ぜひ、自分の能力と他人の能力を見定め、戦略を考えてほしい。
それが、勝ち残る術となる。

 

 

 

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