斜め45度からの理説

どこにも転がっていない理論や方法論を語ります。

作品から何を読み取れるかは、知識ではなく経験がものを言う

f:id:fukaihanashi:20220128100308j:plain

あなたは真の意味で作品を読めているだろうか。

世の中には様々な作品がある。身近なもので言えば、小説や漫画、映画、工芸品、建築物などがそうだ。それら作品から何を読み取るのか、どんな所感を抱くのかは、知識ではなく、経験がものを言うと私は考えている。

知識から作品を読み解けば、その他大勢と似たような解釈に着地する。たとえば、有名絵画を描いた画家の時代背景や生い立ちを知っていたとしよう。「最愛の人と別れた後に描いた絵だから悲壮感がある」といった感想を持ったとしても、それは知識から来たものでしかない。

むしろ、前提知識なしに「この作品を描いた人、ハッピーだったかもね」といった所感を抱く人のほうがずっと作品と向き合っていると言える。悲壮感が漂う絵を見て、作者をハッピーな状態と思うのは、おそらく、自分の性格や経験、触れてきた事象から、そう読み解いたに違いないからだ。

 

 

知識はみんなも同じだが、経験は個々のもの

NHK番組『100分de名著』の司会進行役を務める伊集院光がいる。番組の視聴者ならご存じだと思うが、彼は文学作品を独特な解釈をして、幾人もの専門家を唸らせてきた。

放送はされなかったが、シェイクスピアの『ハムレット』を扱った回では、その独特な読解に専門家は驚嘆の声を上げた。

2014年12月に、英文学者の河合祥一郎先生を講師にお呼びして『ハムレット』を取り上げたのですが、あの回は私にとっても一つのターニングポイントになりました。
私は収録をモニター越しに見ていたんですけど、伊集院さんの話を聞いていた河合先生の顔が、ある瞬間にさーっと青ざめるのが分かったんです。
(中略)
祭壇に向かって懺悔するクローディアスの姿を見つけたハムレットは、今こそ父の仇を討つチャンスだと剣を振り上げるのですが、当時のキリスト教の考え方では、祈りの最中に殺したのでは相手を天国に送ることになってしまう。それで結局、その場では殺さずに剣を収めるんですね。しかし、当のクローディアスはその後、「心の伴わぬ言葉は、天には届かぬ」とつぶやく。これは、俺は本気で懺悔なんてしていないのに、そんな気持ちが天に届くわけないだろう、という意味である、つまり舌を出して「なーんちゃって」と言っているんだ、というのが従来の解釈で、河合先生もそう解説してくださったんです。

ところが伊集院さんは、それに対してまったく違う解釈を示された。「僕は、本音を言った後に照れ隠しで『なーんちゃって』と言っちゃうことがよくある。もしかしたらクローディアスも『こんな大罪を犯した俺が懺悔で許されていいわけがない、天国に行っていいわけないじゃないか』と自己否定するような気持ちで、真摯に『天には届かぬ』と言っているんじゃないか」とおっしゃったんですね。

河合先生の顔色が変わったのは、そのときでした。そして「すごい! ちょっと目が覚めてしまいました」と。
(中略)
「この解釈で論文が1本書けるかもしれない」とまで言っておられましたね。日本のシェイクスピア研究の第一人者で、『ハムレット』のこれまで出た翻訳のすべてに目を通しておられるという河合先生が、新たな読解の可能性を伊集院さんの指摘で発見した。

引用:「100分de名著」100シリーズ記念対談 伊集院光さん × プロデューサーA:100分 de 名著

伊集院光がなぜ独特な解釈ができるのか。
それは、芸能活動の中において様々な経験を積んでいるからに他ならない。

知識はみんな同じだが、経験は個々のものだ。知識だけで作品と付き合えば、誰もが似たような解釈に辿り着く、一方、経験をもって作品と付き合えば、その人なりの解釈に辿り着く。

アート作品や文学作品にいくら触れたとしても、人生経験が疎かなら、大した解釈(読解)はできない。多面的、独創的な解釈をしたければ、人生経験を積むしかない。人や出来事と関わる時間よりも作品に触れる時間に費やすのは愚かだと言える。

 

 

マッチ売りの少女って、実はヤクの売人だったんですよ

「経験が解釈に幅をもたらす」
このことに気づかされたのは、コンビニで立ち読みしていたときのことだ。

アウトロー雑誌の『実話ナックルズ』だと思うのだが(うる覚え)、昔、覚醒剤の売人をしていた人間のインタビューが載っていた。そこにこんな一文があったことを覚えている。「マッチ売り少女、あれって今読み返すと、ヤクの売人だったんですよ。自分の商品に手を付けて、幻覚を見て、それを繰り返していくうちに、廃人になって死ぬ話だと思うんです」

衝撃だった。
ナックルをくらった気分だった。

マッチ売りの少女はヤクの売人。この解釈は、間違いなく自身の経験からくるものだ。この一文を読み、経験こそが解釈の幅を広げるのだと気づかされた。ありがとう、実話ナックルズ。

 

 

感動もその人の経験が反映される

 

上記のツイートのように、何に感動するかもその人の経験に由来する。

私は常々、その人が最も感動した映画(またはシーン)には、「その人にはないもの(羨望・渇望)」が映し出されていると考えている。友人らに好きな映画を尋ねてからこの話をすると、「確かに」と心当たりがあることに気づく。

コツコツと努力をして人生を切り開いてきた友人は、最も好きな映画に『スラムドッグ$ミリオネア』を挙げた。人生の一発逆転を描く映画だ。努力を積み重ねてきた人間だからこそ、賭けに出て人生を変える映画に魅了されたのかも知れない。

 

 

経験せよ、読書はそれからでいい

友だちと遊ぶ時間と読書をする時間、子どもはどちらを優先すべきか。
前者である。

もちろん、「読書なんて大人になってからすればいい」などと言うつもりはない。遊ぶ時間がなかったり、遊ぶ機会がなかったりして、時間が余っているのなら読書はお勧めだ。あくまでも優先順位の問題で、「経験>読書」なのである。

この優先順位は大人でも同じだ。
いくら文学作品を読み漁ろうと人生経験の浅い人間には、作品を深く読むことはできない。

学生の恋愛を描いた小説なら、学生時代に恋愛経験をした人のほうが、恋愛経験をしなかった人よりも感情移入できるだろうし、解釈も違ってくるはずだ。

「経験が解釈に幅をもたらす」は、別言すると「作品の解釈に、その人が反映される」とも言える。だから、人によって解釈が異なっていいし、その異なった解釈にこそ意味がある。作品の解釈に「正解」を求めるのなら、作者の意図を読み取るのが作品鑑賞だと勘違いしているか、勉強のし過ぎか、知識でマウンティングをしたいかのどれかである。

人と違った解釈をしても構わない。どれもあなたの経験が反映された意味のある解釈なのだから。

 

 

fukaihanashi.hatenablog.com

 

fukaihanashi.hatenablog.com